kyoneco’s blog

教育、数学、統計といったテーマについて考えていきます

すべての学習の基礎となる読解力

小学校に上がってからは、通常は授業や塾でもなにか教本をもとにして知識の獲得とそれの定着をはかるということになります。つまり、知識を得るための基礎は、読むことになります。今回は読むことについて考えていきます。

教本にかかれている文章を読み、自分の知らない知識を得ていきます。ここで、読解能力が高ければ、教本を読むだけで、自分の頭の中で、教本がテーマにしている科目の理論的な体系を身につけることができます。例えば、小学校などで使われている教科書は、各出版社が指導要領を網羅するためにその構成や順序をよく練ったうえでかかれたものです。各教科で重要なこと、つまり指導要領としてかならず学ぶべきことや身につけることはキーワード単位であったとしても教科書に記載されています。

ではどのような特徴を有する人であれば、教本を読むだけで理解が早まるのでしょうか。そもそも、理解をするということは自分のすでに持っている知識を新しく学んだことと関連付けるということです。ということは、豊富な知識のある人であれば、教本を読んだときに、すでに学んだことと関連付けやすくなるので、理解が早く、その教科の体系を構築しやすいと考えられます。一を聞いて十を知るような人はすでに豊富な知識があるからできるのだと思います。つまり少ない情報でも与えられたものから自分の知っている知識とその文脈から類推する力によって関連づけることによってすぐさま理解していかのようにみえるということです。学習一般論としては指導者がいたほうが、情報の取捨選別や重要であることやそうでないところといったメリハリがつけやすかったり学問体系における、いわゆる幹となる部分について事前情報を与えてくれるために、そういったところを集中して学ぶことができるので効率的といえます。指導者がいなくても教科書を読みこなしてしまう人は、自分の頭の中の学問体系の構築において、こういった重要な部分を選り分けて記憶することや関連づける能力が高いということもいえます。

こういった豊富な知識というのはどのようにして得られるのでしょうか。これは学習前の段階、日常生活などで得る情報や自分の趣味の読書などから得られるものでしょう。授業で与えられる情報は一定であり一律です。この情報を活かすには背景となる知識を有していたほうがよいのです。よく読書をしなさいといわれます。それもその科目とは関係ないことについてもいわれることですが、背景知識の豊富さという点でメリットがある行為なのだと思います。また、新聞を読むことについてもこれと類似したものでしょう。日々社会でおきている現象について、いままでもっている知識と関連付けて考えることができる演習としての機能を有しています。起きている事実とその解釈について自分なりに考えることができる人であれば有用だと思います。一方、書いてあることを自分なりに考えることをせず、解釈すらも覚えていまったりするようなことではただの盲信ですので演習としての機能は果たせないでしょう。

よく勉強のできる子で小学校の授業は学ぶことがなくてつまらない子がいるというニュースをみることがあります。勉強のすすんでいる子では教科書で学ぶ範囲のことはすでに学んでしまうことがあるためでしょう。こういった子は別のハイレベルの教材などを与えられる環境にいくようなしくみをつくるというのもいいとは思います。いまニュースなどでみかけるギフテッド教育です。ただ、本当の天才はそれでいいと思いますが、勉強はできるけど、その天才の域には及ばないという子もいるとは思います。そういった子のなかには、ただ知識を吸収することだけで終えてしまっている子もいるのかもしれません。自分なりに応用したり、問いを立てたり、研究的なことができれば、学校の教科という枠だけにとらわれない面白さが伝えられるではないでしょうか。実際知識はあってもその運用というところまでは日常的な授業ではカバーしきれない部分であり、工夫によって、より学問的な成長ができる子たちを見逃してしまっている可能性があります。そこを親や学校以外の教育組織がかかわっていくことでよりその子の学力向上につながるのだと思います。